日大藤沢高校に柔道推薦で進学することが決まり準備していた頃、父親を事故で亡くしてしまった。
私学に進学ということで、金銭面の負担が少なくなるようにということで、特待生として入学させてくれました。

これには、学校、先生に大変感謝しています。

と、同時に、頑張らなければ!という責任感も強くなったのでした。

中学卒業前から高校の練習に参加し、中学の卒業遠足(?)で出来たばかりのディズニーランドにみんな行ったのだが、私は行かずに稽古していました。

日大柔道部の合宿所に行ったり、東海大の大会に行ったりして春休みを過ごしましたね。

日大藤沢高校という学校は、神奈川県のNO2の実力を誇る高校で、稽古もきつかったです。
先輩、後輩の関係も厳しく、上下関係を鍛えられました。
(今は、そんな先輩とも気軽に話すことが出来ますが、先生の前では緊張しますね)

以前にも書きましたが、日大柔道部の合宿所の練習試合では、同期の一番最初に試合に出さしてもらい、1試合目は1本負け、2試合目は1本勝ちだった気がします。
練習試合とはいえ、少しやっていく自信がついたものです。
負けた試合でも、先生からは特に何も言われませんでしたね。
経験を積んで来いということだったのでしょう。

東海大で行われた松前杯の練習試合は過酷でした。
私は出場する機会はありませんでしたが、高校柔道の厳しさを感じ、やっていけるか不安になったものです。
とにかく、高校時代は精神的な強さを身に付けることができましたね。
これは、社会に出てからも役立ちました。
高校時代以上に大変なことなどないと思えましたからね(笑)
不思議と辞めようとは思わなかったのが不思議ですね。


さて、入学してしばらくは、練習についていくのがやっとだったと思います。

授業中も居眠りばかり。


あっというまに関東大会の予選を迎えます。

当然、選手としては出ることは出来ず、サポートスタッフです。

関東大会の出場権は獲得したものの、負け方が良くなく、エライ怒られた思いが残っています。

インターハイ予選では、当時の主将だった加藤孝幸先輩が見事に優勝。

春合宿中に肘を脱臼していたのですが、見事復活して優勝しました。
その姿には感動したものです。
その時の決勝の相手が、今の鎌倉武道館で行われている鎌倉柔道協会練成会の師範、小林速人さんだったというのも運命でしょうね。

宇都宮で行われた関東大会には1年生ながら連れて行ってもらい、大会の雰囲気を味わうことが出来ました。


夏の金鷲旗大会には連れて行ってもらえず、悔しかった思いがありましたね。

夏合宿はいつもの郡山ではなく、富山で実施。

高岡一高の先生の道場で寝泊りして過ごしました。高岡武道館で練習試合をしたり、当時の富山県チャンピオンの砺波工業と練習試合したりしましたね。
高岡一高の連中とは、この後も合宿ではちょくちょく一緒になりました。


とにかく暑い思いしか残っていませんが、半日程度海で遊ばせてくれたのを覚えています。

道場で寝泊りするのですから、当然夜もいきなり練習が始まったり(苦笑)
これだけやれば強くなりますよね。

秋に入り、新人戦です。

体重別で行われるこの試合、優勝のチャンスがあります。

我が校は、A、Bの2チームエントリーです!

先鋒(-53k) 同期の松澤(後にインターハイ出場)。
次峰(-58k) 河合先輩(後にインターハイ準優勝)。
中堅(-64k) 同期の桜井(たぶん)。
副将(-71k) 山本先輩。
大将(無差別) 熊坂先輩。

Bチームもベスト8に残りましたよ。

順調に勝ち上がり、桐蔭学園との決勝戦です。

1-1、もしくは1-0でリードして大将戦だったと思います。

桐蔭の大将は小林選手。

熊坂先輩の得意技、裏投げが見事に決まり、1本勝ち!

大喜び!といったはずなのですが、私はこのとき意識が朦朧としていました。
脳裏には、投げた時の掛け声と歓声が聞こえていましたが、あまり記憶が無いんです。

足の傷からばい菌が入り、蜂窩織炎を起こし、高熱を出していたのです。
帰りは横浜からタクシーで帰り、そのまま入院でした。

ちなみにこの蜂窩織炎は、打撲から始まることもありますが、私の場合足の裏の傷口から菌が入り発症しました。
抗生物質の点滴とアイシングで様子を見ましたが、ダメで結局切開排膿です。
麻酔も効かず、痛かったですよ。
まさか後年、こいつにもう一度掛かるとは思いませんでしたがね。

1年次は大した活躍も出来ず、怪我にも泣かされましたね~。
しかし、これをバネに徐々に成長していったんです。